会わない後悔より会う後悔。

Hello!Projectと関ジャニ∞を愛する20代女子の戯言

あれから10年。

2011年3月11日、東日本大震災

あれから10年がたちました。

いままでの3.11は、当たり前の生活が送れる人は当たり前の生活を送ること、それが弔いになると思い、日々の生活を通常通りに送っていました。

もちろん、あの日のことを思い出すことは何回もありましたが、しっかりと書き記したことは、多分なかったと思います。

10年の節目。そして先日また大きな地震があったことで、自分があの日どうしてたかどんなだったか。しっかり思い出しておこう、記憶の風化を防ごう。その気持ちで、10年前のあの日のことを書こうと思います。うまい文章ではなく、本当にただの長い備忘録ですが、よろしければお付き合いください。

 

10年前の3月11日、私は神奈川県に住む高校1年生でした。市外の高校に1時間半近くかけて通っていて、あの日も高校に行っていました。春休み直前の午前授業、部活のない曜日。学校帰り、約10日後に迫った海外の姉妹校交流に行く予定の私は、受け入れてくれるホストファミリーへのお土産を買いに、大きな本屋さんへ寄り道をしていました。日本の風景が描かれたポストカードを買いたかったんです。

これ!というものを見つけ、ほくほくした気持ちで帰路につき、電車に乗りました。本屋さんは、家まで1回の乗り換えが必要な場所にありました。

地震が発生したのは、乗換駅の1駅前を出発し、残り半分の距離を過ぎた頃。走っていた電車が突然、止まりました。

バンッ、と電気が落ち、最初は人身事故かと思いました。でも小刻みに車体は揺れ、窓の外に見える電線が強風にでも煽られてるかのように、ゆらゆら揺れていました。しばらくすると、車内アナウンスで、地震が発生したため緊急停止しました、と言われたような気がします。電車内だからか、幸いそこまで大きく揺れを体感しなかったので、大きな地震だとはその時は思いませんでした。大きな地震だとわかったのはその後、動かない電車の待ち時間にと見た、Twittermixiの友達のつぶやきでした。つぶやきを見て驚き、Yahooニュースにアクセスしたら、東北を震源とするかなり大きな地震が起きたことが書かれていました。すぐさま、当時持っていたiPodでFMラジオを聴き、状況を確認しました。ラジオパーソナリティの声から、かなり深刻なことがかわり、聴いた情報を同じ車両にいる人たちに共有しました。その日は、iPodの電池が切れるまで、ラジオを聴きました。

家族が気になり、母親に電話をしましたが出ず、家の電話も繋がらず。仕事中だと思いながら父にかけた電話が繋がりました。あの時、とにかくホッとしました。父に、自分は今電車に乗っていて、閉じ込められていることを話しました。父は仕事柄、緊急時は会社に残らないといけないのですが、今回も同様なことを話されました。

母と兄はどうしようと考えている時、ふと携帯キャリアの災害伝言板の存在を思い出し、災害伝言板に自分の状況を書き込み、連絡を待ちました。

しばらくして母からメールがきました。パート中だったこと、たまたまその日家にいた兄が心配してパート先に迎えにきてくれたこと、家が停電してること、近くに住む祖母も無事、祖母宅は停電してないので、そちらに合流するとのこと。

私は父と電話ができたことと、いつものように父は会社に残ることを返しました。そして、携帯の電池残量や通信の混雑を考慮し、状況が変わる都度、災害伝言板に書き込むことを決めました。

 

運転の再開を待ちましたが、3時間待っても電車は動かず、線路に降りることが決まりました。

車両ごとに駅員さんに誘導され、車両の先頭側から線路に降り、駅まで歩くのかと思ったら、すぐ横から歩道に降りれるよう促され、線路脇の道に降りました。そこからは特になんの誘導もなく、本当ただ道に降ろされただけ。後から考えれば、混乱極める中で駅員さんもいっぱいいっぱいだと思えるのですが、当時は本当に呆然としました。進行方向はわかるものの、今みたくスマホの地図があるわけではないので、今自分はどこにいるのか、わかりませんでした。とりあえず他の乗客の方が歩いていった方向について行きました。本来降りるはずだった駅の方に向かえば、バスを乗り継げると思ったのです。外に出た時はもうあたりは日が暮れ始めてました。

 

駅の方向に向かい歩いていると、スイミングスクールがありました。スイミングスクールの前でインストラクターの方々が、トイレにお困りの方はお貸しします!と声かけをしてくれていました。駅まで我慢しようと耐えていたのですが、トイレのない電車で我慢してたことやまだ寒さが残っていたので、本当に助かりました。ろうそくで明かりが灯された薄暗いプールはもう見たくない景色です。お礼をいうと、(流す)水ならいくらでもあるので!と言ってくれました。スリッパをはいて、プール横にあるトイレにぺたぺた進むときの、塩素と湿気のむわっとしたにおい。小さい頃水泳を習っていた私にとって懐かしいこのにおいは、同時に震災時の感謝のにおいになっています。

 

しばらく歩くといつも電車から見える建物も見え、現在地もなんとなくわかり、無事に目的地の駅に着きました。ですが、状況は本当に混乱の一言。

改札前にニュースの映像を写すビジョンがあり、そこではじめて東北の状況を目にしました。駅にたどり着くまで大変とは思っていたけれど、本当の深刻さを知ったのは、その時だったと思います。

動いている路線はひとつも無く、駅ビルのお店はせわしなくシャッターを閉めていました。これは長くなると思い、飲み物や何か軽食が欲しかったのですが、何も買えませんでした。

この時のことが怖くて、今電車に乗る時は飲み物やちょっとしたおやつをかばんに入れるようにしています。

 

ここから家に帰るのが大変でした。少なくともバスを3本乗り継がないと地元まで帰れない。まずは振替乗車券をもらいに、駅の行列に並びました。振替乗車券をもらうのにも1時間以上かかったと思います。そこから隣の駅行きのバスに乗るのですが、バスに乗るのに1、2時間。乗り継いで次の駅につくと、また次の駅にいくバスに乗るまで1、2時間。真冬ではないもののまだ夜は寒く、制服のミニスカートから出る脚を必死にさすって待っていたのを覚えています。

停電で所々信号が消えていて、バスに乗れてもいつも通りには進めなかったのではないかな。明かりがない真っ暗な道を、ぎゅうぎゅうに満員のバスに揺られて、地元駅に着いた時には丁度日付が変わっていました。

駅に着いてバスに乗るごとに災害伝言板に書き込みをしていたのですが、それを見た母と兄が、駅まで迎えにきてくれました。行きに置いてきた自転車で帰ろうと思っていたので驚いたのですが、母と兄が来てくれて会えた時、やっと帰ってこれた、って物凄く安心しました。なんとかして家に帰らなくては、と張り詰めていたんじゃないかな。

家は停電してるからと、停電してない祖母の家にいき暖をとらせてもらい、お腹が減ったのでとりあえずすぐに食べれる菓子パンを食べました。

もう夜も遅いからと早めに自宅に戻り、ガスは使えたので、コンロで温めたお湯を絞ったタオルで体を拭き、倒れ込むように寝ました。

 

翌日、本来なら部活の土曜日でしたが、電車が止まっているし、そんな状況では到底なく。お昼すぎには電気が復旧していたので、家でテレビを見ていました。揺れだけでなく、津波の被害が大きいこと、そして福島第一原発で事故が起きたこと。テレビに映るのは、自分の知っている世界ではなかった。

この先どうなっちゃうんだろう、と漠然と思いましたが、私の生活は通常の流れで続いてました。

週明けには学校に行き、心配していた姉妹校交流は予定通り実施になりました。戸惑いがなかったかといえば嘘になります。日本がこんなに大変な時に、私は海外に行っていいのだろうか。父が災害復旧の仕事をして家を空けている時に、私まで家を空けてよいのだろうか。葛藤はありましたが、こんな時だからこそ自分にできることをやらなくてはいけない、と思い姉妹校交流に参加することを決めました。

 

予定通りとはいえ、成田エクスプレスが運転見合わせをしていて、空港まで高速バスで行くことになったり、飛行機の運行ダイヤが変わって、国内で飛行機を乗り継いだり、想像以上に日本を飛び立つまでに時間と手間がかかりましたが、十数時間後にちゃんと私は目的地につけました。

ヨーロッパの遠く離れた国でも、テレビのニュースで震災が報道されていました。ホストマザーに、あなたのおうちは大丈夫なのか、と聞かれ、拙い言葉で、うちは大丈夫だけど沢山の犠牲者がいることや、地震の日が怖かったことを伝えたのを覚えている。そして驚いたのは、地震津波よりも、原発事故のことについて、とても聞かれたこと。チェルノブイリのことがあったからかな。今では福島原発の話は東日本大震災を語る上で主要な話だけど、震災直後は日本では地震津波の方が大きな話だったから、海外からの見方を知れたのは、16歳の私にはものすごく貴重なことでした。

 

約10日間の姉妹校交流の中で、何度も震災のことを伝える機会がありました。習いたての言葉と乏しい語彙力で、10ある言いたいことの1も、正直伝えられなかったと思います。それでも、日本の今を、日本から来た人として伝えられたことに、価値があったと思いたいです。

 

計画停電はしばらく続いたけれど、時間とともに、いわゆる当たり前の生活を、私は送ってきました。だけど、震災は確実に、自分に影響を与え、今も尚続いています。あの震災がなければ、多分私は今の仕事を選ばなかったと思う。

10年の節目とはいいますが、復興はまだ道半ばだし、被害にあわれた方にとって終わりではないです。薄れていく記憶もばかりですが、忘れてはいけないことがここにはあるので、いつもどこかに、このときの気持ちを持っていたいので、ここに書き記しておきます。

 

まとまりもなにもないけれど、当時のことをただ書いただけだけど。来年もまたその次も、見返して、忘れないように置いておきます。