会わない後悔より会う後悔。

Hello!ProjectとSUPER EIGHTEを愛するアラサーOLの戯言

その声は李徴子

学校にうまく馴染めず中学2年生の春、適応障害を発症し不登校になった。学校に行かなくなってから数ヶ月後、通っていた心療内科から市が運営する教育支援センターを紹介された。フリースクールというのだろうか、同じように学校に通えない市内の小中学生が同じ教室に集まって各々勉強したり、交流をするところだった。

当時学校には行っていなくても塾と英会話教室には通っていた。けれど、日中家に引きこもって勉強するか寝るかネットサーフィンするかしかない生活はあまりよろしくないという自覚はあった。心療内科からすすめられたことだしと、そのフリースクールの見学には行ったのだが、結局通うことはしなかった。 

フリースクールに通う自分」が許せなかった。学校というコミュニティから逃げたくせに類似の空間に身を寄せることが腑に落ちなかった。多分、私はここに通う人たちとは違うと思いたかった。不登校になった時点でとうになくなっているはずのプライドなのに、私はそれがどこか捨てきれていなかったのだった。フリースクールフリースクールに通う人に対してどうこう批判じみたことを思うことはないのだが、自分がそうである事実は受け入れられない。この自他の乖離現象はなんなんだろうか。高校生になり国語の授業で出会った山月記にいたく感銘を受けたのは、李徴子が自分だったからなのかもしれない。

 

この一年、仕事がとにかく忙しい。昨年度まで3人でやっていた仕事をほぼ1人で担うことになった。業務量が増えるだけなら私がフルスロットルで作業すればまだいい。ただ今の私には難易度が高い仕事も担当することになり、一つの業務にちゃんと向き合って考えないといけないことが増えた。どんどん手を動かさないと捌けないのに、考えないとそもそも手を動かせないので終わらない。そして上司と仕事への向き合い方というか、それぞれ仕事で大事にしている信念が違った。上司のことを人として嫌いなわけではないし、パワハラを受けているわけでもない。ただ仕事上の考え方が合わない。そしてまわりの人たちは優しい。和気藹々とした職場だし気遣ってくれるが、物理的になにか助けてくれるわけではない。この決定的な出来事がなく、誰も悪くない忙しさというのが一番つらかった。パワハラ上司に傍目でわかるパワハラを受けて被害者になれれば即コンプラに訴えられるのにそれもできない。私の仕事の能力と物事への割り切りが足りない。ただそれだけ。

不登校のときの話を思い出したのは、そんな日々に追い詰められていく私を気遣って夫がかけてくれた言葉だった。

そんなにつらかったら仕事やめてもいいし、休んでもいいよ。

なんでつらい側の私が、自分のキャリアを断念しないといけないの?と腹が立った。本当は会社に行きたくない、やめたいのに、それができない。毎日毎日涙が出てくるのに、それでも会社に行ったら仕事ができてしまう。今休んでも誰も私の味方はしてくれない。私が休んで業務が大変になった上司に同情の気持ちが寄せられる。休んで復帰できても、メンバーに恵まれたチームなのになぜかメンタルやって休んだやつ、っていう評価がついてまわる。そんな自分を認められない状況に、私中2のときと同じ考えを繰り返している、と思った。人っていうのはそう簡単に考えが変えられない生き物。もう15年以上前のことなのに、根本は変わらない。忙しい忙しいと職場で騒いでいる時点でプライドなんてないはずなのに、ないはずのプライドが捨てられない。

プライドの葬り去り方を教えて欲しい。臆病な自尊心と尊大な羞恥心に苦しめられて、このままだと私も虎になってしまう。

さようならのタイミング

母の弟、叔父が亡くなっていた。

亡くなった、ではなく、亡くなっていた。

母の元に連絡がきたときには、既に亡くなってから約半年が経っていた。没交渉だったわけではなく、周りのみんな誰もわからなかった。

元から連絡がまめなタイプではなかった叔父。私からしたらいとこ、叔父の子どもたちも便りがないのは元気な証拠と思っていたが、あまりにも連絡がないのを不安に思い部屋を尋ねたら、ということだったらしい。いわゆる孤独死というやつだった。近くに住んでいたのに早く見つけてあげられなかった、といとこはとても悔やんでいて、私も胸が痛かった。見つかるまで時間がかかったから警察が入ったりといろいろあり、葬儀ができるまで約1ヶ月半近くかかった。唯一の弟をこんな形で失ってしまった母は精神的なダメージが大きかったのか、かなり不安定な状態になっていたので、訃報があってから葬儀までの間、ほぼ毎週末実家に帰ったり、母を外に連れ出したりしていた。誕生日の連絡をしたときに返ってこなかったのはいつも通り、じゃなくてもうこの世にいなかったから、という事実に直面したら、不安定になるのは無理もない。叔父と姪の関係の私でさえかなりの衝撃で、知らせがきてからしばらくやりせない気持ちで、仕事のときも考えてしまっていたくらいなのだから、肉親を亡くした母はよりいっそうその気持ちは強いはずだった。あまりに落ち込む姿を見てしまったから、ああどんなに死にたくても今のタイミングは死ねないよなあと思ったりした。

叔父はあまり人付き合いを好むタイプではなかったが、不器用ながらに優しい人だった。反抗期の時でも、母のことを呼び捨てにしたことはなく、お姉ちゃんと呼んでいたらしい。滲み出る真面目さ。叔父夫妻が離婚してからは祖父母宅に家族で来ることがなくなり、元々まめなタイプでもなかった叔父と会う機会は減っていて、誰かの葬儀で顔を合わせることがほとんどではあったけど、年々亡くなった祖父に似てきたなあと思い、懐かしさを感じたりしていた。車が好きな叔父で、でかい車に乗せてもらったなあとか。そう近くもないけど、姪なりに思い出せるほどの思い出は持ち合わせている。

葬儀はしめやかに、身内だけで行った。祖父の葬儀ぶりに会ういとこたちと軽く話し、こんな機会でもないと会わないからと連絡先を交換した。いとこの顔をみて、いとこの顔に兄の要素を感じ、兄は母方の顔だなあと思った。(私は完全に父方の顔だから全然似てないのがなんともいえない)

叔父が早期退職していなかったら。叔父が離婚せずに誰かと住んでいたら。叔父の持病を誰かが知っていたら。たらればを思い浮かべても、みんな後悔するだけで、でも誰かが悪いわけでもなくて。そんなやるせない状況にさようならのタイミングというのは、そううまくいかないものだと思い知る。今年もまた、ままならないを受け入れていかないといけない人生なんだと打ちひしがれてしまった。

推しの生田衣梨奈さんが卒業発表しました

年が明けまして今年はモーニング娘。'25です。

そんなモーニング娘。'25のリーダー・私の推しこと生田衣梨奈さんが年明け最初のハロー!プロジェクトのコンサートで、春ツアーでの卒業を発表しました。卒業発表された1月2日は、彼女のお披露目日、加入14周年を迎えた日でした。残念ながら発表の現場に私は入っていなかったのですが、オタクたちのレポを見ると、とってもフランクに伝えられたということで、気ぃ遣いの彼女らしいな、と思ったオタクでした。

 

生田衣梨奈さん(えりぽん)を推しはじめたのは実は彼女が加入したときからではなく、加入から大体1年半後くらいでした。

えりぽんが加入する前、私は亀井絵里ちゃん推しをしていました。絵里が卒業する頃、ハローは好きではあったものの高校受験〜高校で部活したりと私生活が忙しく、なにせハローの露出が激減していたのもあり、かなり薄めに追っていた時期だったので、メンバー一人一人のことまではちゃんと追いきれていなかったのです。なので絵里の後に明確な推しメン不在で、まあ6期がんばれ〜といったところでした。そんなある日、私は出会ってしまったんですよ。生田衣梨奈さんの可愛さに・・・

2012年の春、えりぽんが敬愛する新垣里沙ちゃんが卒業するとなり、ガキさんのバスツアーにえりぽんが参加するという企画(?)がありました。そのバスツアーのDVDが発売されたのが多分2012年の秋ごろだったでしょうか。違法だったかアップフロントの広告動画だったかもはや記憶にもないのですが、YouTubeで見たガキさんバスツアーに参加し、いっぱいのオタクと一緒に盛り上がったり、チェキに喜んだり、仕出し弁当のおにぎりを箸をつかって口を大きくあけて食べたりしているその姿を見て胸打たれ、あっ私この子のことを応援する、と思ったのです。

出会うべきタイミングもあったのでしょう。ちょうどその頃は部活を引退し、紛うことなき受験生として勉強しなきゃならずストレスフルMAX。そんな私がたどり着いたのがハロヲタ復活だったのです。(まじで今考えると意味がわからない) One•Two•Three*1とか、会いたい会いたい会いたいな*2とか、cha cha SING*3の動画めっちゃ見てた。勉強しろよ。

めちゃくちゃ動画をみている時期じゃなければ、そんなバスツアー動画スルーしていたかもしれないわけで、えりぽんのことを推そう!と思っていなかったかもしれない。そうやって出会ったえりぽんでしたが、見れば見るほど彼女に惹かれていったのでした。ゴルフが上手で運動神経が良くて、出たがりでぐいぐいすすんで前に出て行くけど負け顔が上手。でしゃばりに見えるけど実は繊細で気遣い屋さん。可愛いの見せ方を気にしていて、ファン思い。増えない歌割だったり、舞台メンバーから外されたり、いろんな葛藤があったんじゃないかと思います。でもそんなこと思わせないような振る舞いに私はいつも彼女のプロ意識を認識させられるのです。14年間無欠勤、頑丈な体といわれていますが、これも彼女のプロ意識からくるものでもあると思っています。

かなり長い在籍期間であったし、同じく長く同じ時を過ごしてきていた同期のフクちゃんや10期のあゆみんが卒業していったのもあり、そう遠くない未来にえりぽんも卒業する、という覚悟はできていましたが、ついにその時がきてしまった。

本当は寂しいし、悲しい。ステージで一番星のようにいたえりぽんを私はずっと追い続けていたから、幕があいたその場所にえりぽんがいなくなってしまうということをまだ想像できない。でも、卒業してもやりたいことないから、といっていたえりぽんモーニング娘。の看板をおろしてひとりで挑戦してみたい夢ができたことが嬉しいし、応援したいと思っています。事務所を離れることがちょっと、いやかなり心配だけど・・・えりぽんはきっとファンが悲しむことはしないんじゃないかと信じたいし。

彼女や彼女のファンを苦しめてきたであろう、変なアンチからの心無い言葉たちから解放されると思うとちょっとだけ安心してしまう自分がいるのも本音ではあります。本当にこういうのは見えないところでやってほしい。愚痴垢とか名乗るくらいなら鍵垢でやってほしいと強く思う。

なにせ春ツアーが待っているので、私は春ツアーガチ勢になります。えりぽんの故郷福岡にも行きたいし、関東公演は全部行きたい。来たる卒業コンサートは絶対に見守りたい。仕事頑張るので、お願いです。なんとか私が追い続けてきた彼女の美しい姿を見るチャンスをたくさんいただけると嬉しいです。

*1:モーニング娘。50枚目シングル

*2:℃-uteの19枚目シングル

*3:Berryz工房の29枚目シングル

ままならないを受け入れる

2024年11月13日記

 

今年2回目の手術を受けた。妊娠7週目の稽留流産による子宮内容物の除去術だった。年2の手術って多村*1かよ、と思った。自分の置かれた悲劇的な身をそんな風に置き換えられるおふざけ思考力。自分の嫌いなところすぎて呆れるが、おふざけしてても思い悩みはするもので、初期流産の原因のほとんどは染色体異常で母体起因の問題ではないことも、現代の医療ではどうにもできないことも知っているし、わかっているが、それで自責の感情や後悔の念はそう簡単に消えないのが、八百万の神がすまう国に生まれてきた無意識信仰心マシマシの日本人だと思い知らされる。子どもは親を選んでくる理論とか親になる準備ができてなかっただけだよ論とかそんなの信じてなくて、生物なんだからあるべき行為をすりゃ子供はできるし生まれてくる。そんなこと信じてたら性暴力を受けた人の妊娠とか、できちゃった結婚とか、虐待家庭とかまじでどうなるんだよと思っている。その反面、そういう冷めたこといってるから結局恵まれなかったんだよ、とかありそうだよな、なんて思う自分もそこにいて、結局前段の意味のわからないいかにも日本みたいな自分に苦しめられるのであった。

稽留流産と診断されたとき、判断するのに少し時間がとれますと先生に言われたけれど、このまま放っておいてもどうにもならないんですよね、とすぐに手術の日取りを決めて手術の同意書にサインして帰って来た。妊娠したかもと思ってからの約1ヶ月我慢していたコーヒーを飲んだ。ああもう気にしなくていいんだなあと思った途端にぽろぽろと涙が出てきた。解放されたはずなのになにも嬉しくなかった。もっと悩めばよかったのかなあ。

夜になって布団に入ると今まで疲れていたはずの体なのに、眠りにつけなくなっている。感情がわからないけど涙が出てくる。出張に行く前に上司には報告しないとととっていた会議室をキャンセルした画面の記憶がよみがえる。ああ人生ってままならない。誰がどう歩んだって人生どうにもならないことだらけだけど、どうにもならないことばかりすぎないか?

楽しみにしていた屋久島旅行も妊娠に気づいてキャンセルした。迎え入れる準備はできていると思ってたのに。そうやって押し付けがましいのをやめなさいってことかもしれないとかいろいろ考えても、結局はこのままならなさを受け入れていかないと、人は壊れていってしまう。手術後のしばらく止まらない出血や、子宮の動きを回復させるための服薬やそれに伴う腹痛も、受け入れないといけないプロセスで、数々のままならないを受け入れていくしかないのだよ。

胎嚢だけで中身がなかった君よ。もし次に人生が与えられるときは、実りあるものになってくれよ。バイバイ。

*1:プロ野球選手・多村仁志。私の大好きな野球選手のひとり。スペランカーという愛称で呼ばれるほど現役時代ケガが多かった。

待望の推し曲がセトリ落ちした

SUPER EIGHTの超アリーナツアーが無事に千秋楽を迎えたので、堂々とネタバレ記事書きます。

ニューアルバムを引っ提げたツアーのはずなのに、待望の推し曲がセトリ落ちしました!!!!!

私の長年の夢だったつんくさんの提供曲「なんだかThat's 青春!」はセトリ落ちてました。 いかに待ち望んでいたかは過去エントリにいっぱい残ってるんで暇な時にでも読んでください。

誰だよ、コール入れちゃうかもだから止めてね(シナシナ)とか言ってたやつ。誰も止める必要性がない。だってコール入れられる曲やらないんだから!!!!!!!!

 

超アリーナツアー2024 SUPER EIGHT セトリ

1.カカッテコーゼ

2.オオカミと彗星

3.稲妻ブルース

-バンドターン-

4.アンスロポス

5.BOY'23

6.未完成

7.喝采

8.群青の風

9.生きてる僕ら

-バンドターン終了-

10.モンじゃい・ビート

11.オモイダマ jam(w/現地高校生吹奏楽部)

MC

12.ハリケーンベイべ

13.HAPPY

14.大再生

15.渇いた花

16.鍵

-バンド再び-

17.ブリュレ

18.ゴリゴリ

19.ハライッパイ

20.“超”勝手に仕上がれ

21.音楽が聴こえている

-バンド終了-

最後の挨拶(安田さん)

22.Eighdays

EC1.乾杯‼︎節

EC2.無責任ヒーロー

横浜アリーナ公演ではアンコールに∞SAKAおばちゃんROCK追加されてました。

 

That's青春していません!!!!どういうこと!

稲妻ブルースあたりまではまだセトリ落ちの気配は察せず。やけにバンドターン早いなとは思ったけど、アルバムツアーですもの。しかもつんくさんのネームバリューもそれなりにあるわけだから、やると思うじゃないですか、提供曲。順調にアンスロポス、未完成、喝采、群青の風あたりのアルバム収録曲をバンドでやっていき、吹奏楽部とオモイダマjamったあたりで、そろそろくるな(((o(*゚▽゚*)o)))って感じの心持ちでいたわけです。

ハリケーンベイベ→HAPPY→大再生 の流れで、オシ!次!と思ったら渇いた花。

・・・あれ?Taht's青春来ない????雲行きが怪しい。鍵をしっとり歌うてる間、うまく浸れない私がそこにいるわけですよ。

よし、ちょっと状況を整理しよう。仕上がれはほぼ確やるじゃない?ということはバンドターンはもう一回くるわけで、それなのに鍵でしんみりしたら、もう青春来なくない…?正気?と頭の中半分鍵に浸りながらも、もう半分はこのあとの残り時間どこにThat's青春をぶちこむかで、フル回転していたんですけど。私の中のchatGPTに「あなたは敏腕プロデューサーです。残り時間と今の構成でなんだかThat's青春!はどこに入れますか?」と聞いてみたさ。なあ、答えてくれよ。問いかけても、答えちゃくれない。ここまできたらぶちこむ隙がない。グルグル考えてたらメンバー裏に引っ込んで、スクリーンに映像流れてましたよね。そして、バンドセットドーン!!\ヤッパリー/

あ、これ終わる気だな、と思ってたらEighdaysきてました。

 

やっぱりセトリ落ちたよね?これ。

 

エイトエイト!のアンコールの声援を聴きながら同行者に思わずきいたよね。「もしかして、落ちました?」

私が入ったの新潟最終日だったんだけども、同行者は愛知公演に入ってたから、もうアンコネタバレとかそんなの関係ねぇ!とばかり聞いてしまいました。すごい気まずそうに「気づいちゃった?」って言われてたよねー!!!もう笑うしかないよね!!!!まさかさ、長年待ち続けてたつんく提供曲がセトリ落ち!!!!落ちた事実を深く受け止めてたら乾杯節やってた。おいヤケ酒もってこい。アンコールにぶちこまれることもなく、朱鷺メッセに残されたのはThat's青春がセトリ落ちしたという事実だけでした。情緒どこ。

愛知から新潟までの約2週間、この事実を私に伏せ続けてくれた友人のみなさま、本当にありがとうございました。こんなにも重く苦しいことを抱え込ませてしまって大変申し訳なかった。(そこまで重く受け止めているのは私だけだよ)

最後の挨拶でやすださんが、俺たちの青春はまだまだ終わらないぜ(超意訳)って話されていたので、私の青春はドームツアーで必ず回収していただきます!!!よろしくお願いします!!!

 

 

 

青い鍵盤ハーモニカ

少し寝坊して家を出ると、小学生の通学時間帯と通勤時間が当たった。ピンク、水色、薄紫。色とりどりのランドセルに、かわいいなあ、時代は変わったなあ、と思ってしまうババア心だった。

私が小学生だった約25年前は、女の子は赤系、男の子は黒系の時代だった。赤の色味が増えてただけでも私の母は感心していたのに、今や何色あるんだろう。私も、本当は茶色いランドセルが欲しかった。私立の賢い子みたいなランドセルに憧れていたけど、当時のイトーヨーカドーにはそんな色なくて、ワインレッドのランドセルを選んだ。

それでも諦めばかりの色選びではなかった。子どもの頃の私は、いわゆる女児が好きそうな色味やかわいいものがあまり好きじゃなかった。今ではピンクのズボンも履くし、大きい襟のワンピースもすきだし、この間はクロミのヘアバンドを買ったくらいだけど、当時は女の子がみんな持つピンクの鍵盤ハーモニカがどうしても嫌だった。ピンクは絶対に嫌。そんな私の気持ちを両親は別に咎めもせず、本人が嫌ならしょうがないと、男の子が多く持つ水色の鍵盤ハーモニカを買ってくれた。クラスで水色の鍵盤ハーモニカの女子は私ともう一人の2人だけだった。女子と男子で分けて鍵盤ハーモニカを収納するので、自分の鍵盤ハーモニカがどれかすぐにわかって探す手間がなかった。それもまた嬉しかった。

一張羅は兄のお下がりのGAPのグレーのパーカー、裁縫箱は黒のドラゴン、放課後のクラブ活動は球技クラブ。スカートを全然はかなくても、お転婆で男勝りな子ね、くらいで親は別に怒ったり騒いだりしなかった。

今ほど多様性の時代でもなかったから、周りからの目線はいつもあったし、同級生から色々言われたりもした。すごく生きづらかった。それでも自分の好みを曲げずに貫いていけたのは、それを矯正しようとしないでいてくれた両親や祖父母のおかげなのだろうなあ、と大人になって思う。

いつからか自然に、スカートも履くようになったし、ピンクもかわいいと思うようになったし、まあいわゆる普通の感性がわかるようになった。それでも、私の中には水色の鍵盤ハーモニカがある。自分の中の私らしさの象徴のように、いつもそこにいてくれることが、私と私の家族への誇りなのかもしれない。

幸せなことだけを拾い集める才能

先日高校の同級生の結婚式に招待された。新婦は、いつもつるんでた同じグループにいたわけではなかったけど、なんかふわふわと仲良くしていた子だった。確か2年か3年で同じクラスだったはず。私が通っていた高校は単位制の学校で、クラスの概念が薄かった。特に必修が少ない2年・3年はクラス単位で受ける授業もあんまりないから、はっきり覚えてはいないけど、選択科目が同じだった記憶もないので、多分何か必修が一緒だったような、気がする。どこかのタイミングでなんとなく意気投合して、社会人になっても連絡を取り合い、たまに会っていたそんな間柄。高校時代の友人はそういう関係性の人たちが多い気がする。これは人生の結構大きな財産だったかなあ、と振り返って思う。高校の同級生が他にも数名きていた。中には10年ぶりに会う人もいたけど、感動の再会らしい感じはまるでなく、なんだかぬるっと会話がはじまって、10年経ってもあんまり変わらない空気感で過ごした。

由緒ある場所での神前式や披露宴。それはとても厳かで格式高く、丁寧に丹精込めてつくられた空間はとてもとても素敵なものだった。和装もドレスも本当にきれいで、会場いっぱいに幸せが充満していた。友人のこのような場に立ち会えるのはとても嬉しいことだ。ああとても良い日だなあ。そんな気持ちでいたことに嘘はない。嘘はないのだけど、私は幸せなことだけを拾い集める才能のない人だから、モヤモヤをどうにも捕まえてきてしまったようだ。

私が入籍した約3年前はコロナもまだ猛威をふるっていて、とてもじゃないけど結婚式を開くなんて考えられない状況だった。少し経つとまあ落ち着いてはきたものの、アクリル板必須だったり、アルコール提供なしだったり、極端な人数や時間の制限があったりと、自分の思い描く披露宴の形にはできそうもなかったので、それならやめよう、と挙式はせず写真だけ撮ることに決めた。予算の関係から完全に望みが叶えられたかと言われるとそうではないけど、満足のいく写真は撮れたと思う。それだけでもだいぶよいことだと思っている。思ってはいるものの、やはり良い結婚式を見ると、自分が式を挙げたらどうなっていたかなあ、とやっぱり考えてはしまうものだ。主賓挨拶はあの人に頼んで、乾杯はあの人。お色直しではサプライズであの人と一緒に席を立とう。考えても虚しいだけなのに、想像力だけは豊かなもので、くっきりと浮かび上がる理想に自分でダメージを受けてしまったりする。

今からでもやればいいじゃない。それはそうなのだけど、それもまた自分の気持ちと反するのだ。何年前に結婚した?今さら?みたいなタイミングで挙式をあげるのは自分の思想には反するのだ。(挙げる人のことを批判する意図は全くない。あくまで自分の理想だけの話)我ながら面倒くさい。諦めろよいろいろと。こういうときに、話は戻るが、幸せなことだけを拾い集める才能のことを思う。世の中誰しも良いこと悪いことどっちも持っていて、どちらかに偏ることなんて滅多にない。大体同じ量だけ幸も不幸もある。どう感じるかはその落ちている良し悪しをどう拾い集めるかで決まってくる。良いことだけしか本当に見えずに拾ってくる人は超ポジティブだし、悪いことが見えていても律して良きものを拾い集められる人もいる。私はその取捨選択が本当に下手くそな人間だ。夢見がちなくせに変なところ現実主義になって悪いことも拾って自分で頭を抱えてる。手近な幸せだってあるのに、自分の手には届かない幸せを諦めきれずに、不幸を拾ってくる。

幸せなことだけを拾い集める才能を諦められないのも、また難しいことだったりするのかもしれない。